昭和45年11月04日 朝の御理解
御理解 天地書附
「生神金光大神 天地金乃神一心ニ願 おかげハ和賀心ニあり 今月今日で頼めい。」
天地書附ほど、金光教の信心を余すところなく、表現してある御教はないと思います。もうここだけにしぼればいいのです。教祖様も、この天地書附を二代金光、四神様にたくさん書きだめさせて、書きためておけと仰った。そしてそれをお参りして来る信者に、お渡しになられた。これを見やすい所に貼っておけと。これを見やすい所に貼って、いつも心にかけて信心すると、信心の目当て、信心の目印を、天地書附に示されておったという事でございます。
生神金光大神、生神金光大神のお取次を頂くと言うと。生神金光大神と唱えるところに、ここにもう、生神金光大神の取次を願う心があり、その願う対象を天地金乃神に置き、しかも一心に願えである。そこを一心の眞を捧げて願うという事になる。一心に願えという事には、そういう内容がありますよね。一心に願うと言う事は、一心の眞を捧げて願う。おかげは、和賀心にありと。
生神金光大神の御取次を頂いて、天地金乃神様を対象に拝ませて頂く時、しかも、一心の眞がそこに出されて、いつも、その事が心にかけられて、願われる時に、和賀心になろう、和賀心になろうと思わんでも、和賀心は、そこに与えられるという程しの事なのだと私は思う。どこからでも、いつでも見える所に貼っておけと。と、言うことは、いつも自分の心にかけておけという事なんです。
私は、ここのところを、本当に有り難いと思う。最近、一心の眞を捧げての願いになろうという、今月の焦点がですね、和賀心になろう和賀心になろうと願わんでも、ここのところはね。生神金光大神 天地金乃神一心に願う。そこのところが出来ればね。和賀心は与えられるんだという事です。おかげを受ける心。天地書附の、ここのところは、大変な、いわゆる信心の、私共の、ぎりぎりの焦点でしょうが。
その事にそう取り組ませて頂いたら、和賀心は自ずと、心の中に湧いてくるもの。どうぞ、私の心の中に和賀心を与えて下さい。和賀心を与えてくださいと、一心に頼むといった様な風に言うておりましたけれどもね。頼まんでも良い。いわゆる最近言われておる、生神金光大神の御取次を頂いて、だから、「生神金光大神」とこう唱える所には、もう、生神金光大神のお取次を頂いた事。しかも、その願う対象が、天地金乃神である。
しかも、そこに一心に願えである。だから、その一心に願えと言うところを、もう少し説明を加えるならば、一心の眞を捧げて願うという事である。だから、その一心の眞を捧げての願いになる時、一日、いつもそれが見やすい所に、見える所と言うのは、自分の心の中に、掛け通しにかけておくと言うこと。この様に見やすい、見よい所はないはずなんです。自分の行く所、在る所に、生神金光大神があり、いつも願う対象が天地金乃神と言うところにあるのです。
しかも一心に願え、一心の眞を捧げて願え。そこにはね、いわゆる、和賀心。しかもそれがね、今月今日で頼めいと。今月今日で頼み続けられていかなければならないという事。本当にこの、一心の眞を捧げての願いになろうという精進こそ、私は天地書附そのまま、いつも自分の心にかけ通しにかけられる事だと、今日は思わせてもらいます。しかも今月今日で頼めい。目が覚めた。今日もまたどうぞと。今月今日で頼んでいく。と言うことは、どうぞ今月今日も、どうぞ、立行きます様にという事なのである。
今日も、お生かしのおかげを頂いておる。どうぞ、おかげを頂いて目覚ましのおかげを頂いた。今日もどうぞ、立行くおかげを頂きますようにという事の願いが、言わば願い続けられる。願い続けられるという事が、一心の眞を捧げて願う。一日を終わらせて頂いて、今月今日もおかげを頂きまして、立ち行く事が出来たと、お礼を申させてもらう。これは、昨夜の御祈念後の御理解です。今月今日をどうぞと願う。いわゆる今月今日の立行きを願う。しかも、一心の眞を捧げて願う。
そこに、今月今日もおかげを頂いて、もう明日の事でもなからなければ、明後日の事でもないのである。今月今日が立ち行けばよいのである。だから、明日になったら、明日の、また、今月今日である。さらなのです。ですから、もう、今月今日が立ち行けばよいのである。一日を終わらせて頂いて、今月今日もおかげを頂きましてと、心の底から、お礼の心が湧いてくる程しの今月今日でありたいのである。
その事を、お礼申させて頂いとりましたら、昨日、カンナの花を頂くのです。それが、まっ黄のカンナです。色々カンナの花にもありますよね。カーキ色とか赤とかと言う。今、盛りに咲いておる花ですね。いわゆる黄という事は、これは黄という時には、黄というところから、右にもなれば左にもなると言う。丁度真ん中という意味なんです。色でお知らせを頂く時に、そういう訳なんです。
教祖様のご信心の素晴らしいと思う事はね、いつも、どんなにおかげを受けても、どのような、例えば難儀な中にあってもです。それを今中として頂いておられる事。今の中ですね。今月今日の今です。中は、中心の中です。ですからね。力を落とす事もなからなければ、思い上がる事もない。いつも、今が真ん中なのだから。カンナという事は、私は、何時もカンナの花のお知らせは、修業とこう言うね。
それこそ、身にカンナをかける程しの思い。難儀であればある程、自分の身にカンナをかけてゆく程しの、いわゆる改まりに改まって、自分という者を削り捨てていくという事。いよいよ良いものを出して行こうと言う精進である。いつでも、どんな場合でも今中。しかもそれがね。日々と言うか、言うならば、まあ言葉の表現のしょうがないですから、油断も隙も出来ないと言うのですから。けれども何かこう、一生懸命、気張って緊張しとらんならんという様な意味ではさらさらないのですよ。
金光様のご信心をさせて頂く者が、いつも口をついて出るものは、金光様でしょうが。いわゆる生神金光大神なんです。しかも天地金乃神。いつも言わば願わせて頂くところの対象になる所は、天地金乃神なのである。金光大神と唱える所には、もうそこに天地金乃神がいつもある。しかもそこに、一心に願えという事を、具体的に分かりやすく言うと、一心に願えと言うところを、只、一心の眞を捧げて願うという事である。
その事が実に、見易う楽しいという事をですね。一つお互いが体験させて頂いたら、なるほど、今月今日が立ち行けば有り難いのであり、又、今月今日が立ち行った事を、おかげを頂いて、有り難いとお礼を申し上げ、願うていき、お礼を申し上げていき、しかもそれは、明日の事ではない。今月今日の事なのだ。明日は明日なのだ。明日は明日で、目が覚めたら、又、今月今日なのである。
しかも、その、生神金光大神、天地金乃神一心に願うという事になって参りますとですね。和賀心は、自ずと自分の心に、湧いてくるものだと言うことです。私は今日は、ここのところのね。湧いてくるところまでをです。一つ体験して頂いたら、金光様のご信心の、いよいよ素晴らしさが分かってくる。どうぞ、私の心の中に和らぎ賀ぶ心を与えて下さいと言うての願いじゃないです。今日、私が、皆さんに言っておるのは。
ここはもう、願わんでもです、生神金光大神天地金乃神一心に願うところ迄が、出来ればね。そこは、心の底から、それこそ、泉が湧くように心の中に嬉しい有り難い心が湧いてくるのだと。今月今日で頼んでいくのは、いつも今中なのである。どんな場合であっても今中です。だから、誰でも今中です。だから、悲観する事もなからなければ又、思い上がる事もない。もうこれだけおかげ頂いたけん、大丈夫とかよかと言うことじゃない。それとても今中である。
さあそこで、生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありとおっしゃる。おかげは和賀心が、自分の心の中におかげの受けられる状態が、一心の眞を捧げての願いというところにある訳です。和賀心があるのである。そこでそれが日々いわゆる、今月今日で繰り返していけば、それで良いのであるという事。昨夜の御祈念が終わらせて頂いた後に、私の姪であります泰子が、ここで、母親と二人で。
朝晩ああして、お参りを致します。最近は、お届けが終わってから、母親が下がった後に、又、ここに残ってから、その日一日のお礼を言うのですよ。それが、もうお礼がやむにやまれん。言わにゃおられんという風にして、ここでお礼のお届けをするのです。しかも、それが毎日同じ事なんです。私は、今月今日とは、これだと、最近、あの人のお届けを聞いて思います。同じ事なんですもん、それを実感をもってですもん。
最近、頂いておる御理解が、本当に自分の身に心に表れていきよるという事です。自分の持ち場、又は立場、そこのところに実意をこめてです。それぞれの持ち場立場のところを、一生懸命に表していくという事が一心の眞を捧げる事だと。又、それが願う事にも通じるのだと。そういう御教がですね、泰子の日々の上に現れてきておるという訳。それが難しいという事じゃなくて、それが日々がです、その事をお礼を申し上げねば、やはりおられないという様な実感の中に、おかげを頂いておると言うことです。
それが、どこに、一心の眞を捧げるという一心が、焦点が置かれてあるかと言うとてすね。もう寝ても覚めても、最近は、幹三郎ちゃんが事ばっかりとこう言うのである。お家で御用させて頂くのも、ここに実意を欠かずに、一生懸命おかげを頂かせてもらう事が、幹三郎ちゃんの事の願いに通ずるとこう思うと言うのである。ここへ来て、御用させて頂くのも、もう幹三郎ちゃんの事だけしかないと。
だから、言わば油断も隙も出来んと言うと、大変難しいごたるけれども、その事を心にかけ通しに、かけ続けさせて頂くところからです。そんなら、おかげを受けておるのは、誰かと言うとです。幹三郎の、例えば、病気なら病気という事に、これは、そういうおかげに繋がる事も勿論でしょうけれども、一番おかげを受けておるのは、泰子自身だと言うことなのである。毎日毎日がですね。
それこそ、生き生きと、毎日同じ事をです。そう言うて、お取次を頂くと言うか、お礼を申し上げなければおられない、さらなものが生まれておるという事。私は、これだなあと、信心は、金光様の御信心は。なるほど、一心の眞を捧げるという事がです。お互いが商売なら商売をさせて頂いておると言うこと。家庭の御用をさせて頂いておる事。百姓させて頂いておると言うこと。お広前を中心にして言うならば、総代なら総代としてのご用が、かくあらなければならない事を焦点にして。
その総代のご用に熱中するという事。しかも、その焦点がです。これは例えば、今日から、幹三郎の特別御祈念に入らせて頂く訳でございますから、そこに一つ焦点が置かれておらにゃ、商売は繁昌するのであり、そこんところに一つ焦点が置かれておけばです。家庭は円満になるのであり、もう全ての願いと言うもの、いわゆる、いうならば、神様の願いがその氏子の上に現れてくるという事なんです。
だから、もうあれも頼まにゃならん。これも願わにゃんと。それは心にかかる事は願わなければおられません。御神前に額ずかせて頂くと、そんなら私の場合でも、さあ、誰の事も彼の事も願わなければおられません。けれども本当の事を言うたらです。一つの事に一心にですたい。一心に例えば、幹三郎なら幹三郎ちゃんが事をです。明けても暮れてもその事を思うておりますと言う。
だから、自分がこうやって、一生懸命、お家の御用をさせて頂いておるでも、ここでそんなら皿洗いやら、お炊事場の御用やらをさせて頂いておる事も、心から離れないのは、幹三郎ちゃんの事だと、こう言うてある。だから、そこに実意を欠ぐ訳にいかんのである。その実意を欠がずに、今月今日で頼み続けられる事が、嬉しゅうして嬉しゅうして、楽しゅうして楽しゅうしてと言う、日々になってきてです。
それが、又、新たな事、さらな事としてです。今、泰子が、日々体験させて頂いておる、斬新な喜びというものを受けておる訳。いわゆる、おかげは和賀心にありというのは、願わんでも頼んでも頂けれるものだという事が、皆さん分かるでしょうが。私は、これは大変な事だなと。金光様の御信心は、なるほどこれでなからなければいけんなと。思わせて頂きます。
しかも、今月今日で頼め。どうぞ、今月今日も立ち行きます様にという事。だから、その今月今日も、どうぞ、幹三郎ちゃんがと言う、その願いでもいいという事になるんです。立ち行くという事は。そんなら、どうぞ、今月今日も、幹三郎ちゃんが立ち行きます様にと言うて願いよればです。一番立ち行っておるのは、泰子自身であるという事なんですよ。どうぞ、私が立ち行きます様に、私の一家が立ち行きます様にという事でなく、金光様の信心の素晴らしいところは、ここだと、私は。
なるほど、天地書附は、そのまま、お道の信心は、ここにあると言う、天地書附にあると言われるのも、今日、私が、皆さんに申しております様なところが焦点になった時に、初めて金光教的信心と言うかを、自分に身につけていく事が出来るのであり。なるほど、和賀心とは、この様な事だなと、和賀心という事の実感が、その和賀心に、そんなら一番助けられておるのは、それを願い続けておる、その人なのだという事。
もう他の事のおかげの全てが、その和賀心の中にあるのですから。言うなら願わんでも頼んでも、ここのところにおかげを頂かれる。おかげは和賀心にあり。だから、おかげば頂かんならんから、和賀心になりたい等と言うてですね。和賀心になりたい、和賀心になりたいだけではいけないという事。もう和賀心と言うものは、与えられるものだという事。しかも、与えられる事になったら湧くように自分の心の中から湧いてくる。
日々さらに、今日もおかげを頂いて、もう嬉しゅうして、楽しゅうして、その事を思いよったら、楽しゅうなる、有り難うなる、と、泰子は言うております。私は、本当にもう、天地書附の素晴らしいとこは、なるほど、神様が教祖様がです。見やすい所に貼っておけとおっしゃった意味が分かる様な思いがする。必ず御神前に貼っとけと言うのじゃない。天地書附ちいうのは、一番見やすい所に。
そんなら一番見やすい所と言うところは、自分の胸に貼っとくが一番良いのである。どうぞ、今月今日が立ち行きます様に、寝ても覚めても、どうぞ、幹三郎ちゃんがと、こう思う。その事が、今月今日で頼む事になる訳です。今月今日もおかげで、明日の事ではない。今月今日が立ち行ったという事。昨夜も、私、御祈念を終わって、昨夜は、ちょっとここで、いろいろな用件があっとりましたから、大分遅くなりました。
あちらへ下りましたら、皆、休んで炬燵の間に行きましたら、子供達が試験勉強でしょう、二三人で勉強しておりました。幹三郎は、炬燵に入ったまま寝ておるから、早う寝らにゃ、明日の事があるから、早う寝らんのと言うたばってんから。私はもう部屋に入ってまだ、家内が、ごそごそしとりましたから、「幹三郎は、おかげを受けておるなぁ」ち言うて話した事でした。炬燵の中で、もうそれがね。
御祈念に出らにゃならんけん、早う早うと。言うたけど、「うんうん、出る出る」と言いながら寝ておる。まあどうしたおかげを受けておる事だろうかと思う。炬燵の中で、ぐっすり眠り続けておるという事。この頃から、病院に行くとが怖いとか何とか。そういうものが、さらさら、有るならばですね、眠られないだろうと。だから、もうそのままでよい。もうその炬燵の中でいい。と言うて、私は夕べ家内と話した事でしたけど。
「おかげ頂いとるばい。幹三郎は」ち言うてから、話した事です。それはですね。勿論、皆さんの勢信心と言うか、そういう祈りがね、かけられて、祈りが、その様なおかげになっていっておる訳でありましょう。お恵みを受け続けておる。昨夜の御祈念の中に、その事を願わせて頂いておりましたら、青竹をね。まっ二つに割ってから、節をとって、筧を作っておるところを頂いた。誰かが、筧を、ずうっと。
両親はじめ、家族の者が一番最後にお届けに来ますから、父と母に、私が、その事を夕べ、一番最後に申しました。お爺ちゃん、お婆ちゃん、今日ね。幹三郎の事を今晩、御祈念にお願いさせて頂きよったら、いっちょん心配要らん事よち。もう神様は、一生懸命、ずうっと、もう合楽までは、今も言うように、炬燵の中でも眠りこける程しにです。御祈念の時間を忘れる程しに、眠りこけるほどしに、お恵みのおかげを頂いているのであるけれども。そんなら、この合楽から。
又そんなら、病院なら病院まで、今、筧がかかりよるところ、水は流れてないけれども、まだ、新しい竹を二つに割って、節を落としただけ、ずうっと筧が伝う。おそらく明日は、この中を水が通る事であろう。只、問題は、筧の下に、つんばりがずうっと要りますよね、筧。それが、まだ出来てないちいう感じ。まあお互い、又、皆さんの信心が、そういう事になっていくでしょう。ずーっとお水が流れる。
これが、ちょっと、横さん、こうやったら、水は向こうさん行かずに途中でこぼれてしまいますからね。竹を二つに割った様なのですから、ちょっと斜めになったら、そこでこぼれてしまうから。これが真っ直ぐに、言わば、病院なら病院にお恵みの水がかかっていく事の為には、やはりそれに、ずうっと、いわゆる、下の支える台というものが必要なのである。だから、支えさせて頂く、その支えさせて下さいと言うことがです。
私は、昨日だけじゃないですけれども、最近、泰子の願いであり祈りと言うものが、明けても暮れても、その事ばっかりだと、こう言うておる。だから、親先生がおっしゃる、自分の持ち場立場を一生懸命に、信心で努める事が、一心の眞を捧げる事になって、願う事にまで通じるのだとおっしゃるから。今、私が茶碗を洗っておる事も、幹三郎ちゃんがおかげを頂く事の為であるという風に思うと。
そうすると、自分の心の中に嬉しゅうして嬉しゅうして、有り難うして有り難うしてと言う、やはり毎日、同じ事でもお届けをさせてもらわなければおられないと言う、和賀心が、いわゆる泉が湧くように、泰子の心の中に頂き続けられておるという事なんです。皆さん、一つ、信心の稽古です。私は自分の息子の事を頼んで下さい、願って下さい、という意味じゃないけれども。
皆さんが、一生懸命、そういう勢信心でおかげ頂かせて下さろうとする、願いをして下さるなら、その事だけに一つ、焦点を置いてみてごらんなさい。助かっておるのは、あなた方だという体験が生まれてくるということなのですよ。一番、助かっておるのは、自分自身。こんなに一心の眞を捧げるという事は、見易い事だという事になってくるです。なるほど、今月今日で頼み続けるという事は。
決して、それは、油断も隙も出来んと言うより言葉は無いけれども、と言うて、それは一つも、そう気張ったものではないという事。言うておる事、しておる事の中にです。私がここで、変な事どん言よったら、幹三郎ちゃんの願いにはならないのだと思うた時にです。やはり、言う事でも、する事でも信心にならなければおられない。しかも、それがね。体験として、自分の心の中に湧いてくる程しの和賀心が頂けれるという事がです。それをもう、切らさず絶やさず、頂かせて頂く楽しみがあるのです。
その事を私が、両親に、昨日は、ここで伝えさせて頂いたら、もう大変安心した様な風でですね。やっぱり心にかけておられる。安心したようにしておかげ頂いた。どげな風に言うちから、両親ば安心させようかと、やはり言うことは要らん。神様は、ちゃんと、そうしておかげ下さるんだと思うて、夕べは又改めて、お礼を申させて頂いたような事でございました。そういう一日、その事がです。
私は、いつも、我身にカンナをかけておる事と同じ事だと思うのです。自分の言うておる事、しておる事、商売をさせて頂く者は、商売の場で。お百姓しておる者は、畑の真ん中で。家庭で御用させて頂いておる者は、いわゆる皿を洗いながら、ご飯を炊きながらです。それが幹三郎ちゃんのおかげに繋がるんだと思うて、それを実意をこめて信心でさせて頂くという事がです。そんなら幹三郎の上にも、それが幹三郎の事を願うという事にも通じるのであり、願うと言うことに通じるのですよ。
そして、それがどういう結果になるかと言うと、おかげを受けておるのは、私自身が楽しゅうなって、有り難いという、和賀心。願っても頂けなかった和賀心は、そのような事の中から生まれてくるという事になるのです。改めてね、私は、今日、天地書附を、本当に金光教の信心の一番、誰でもそれを言いますけれど、本当にこの様に身近にですね、このように素晴らしく、天地書附を理解して頂いたのは、今日の御理解だと、私は思わせてもらいます。
どうぞ、皆さん、幹三郎の事をね。一つ、本気で願ってごらんなさいませ。本気でその為に、家庭生活の上にも、商売の生活の上に於いても、百姓の生活の上に於いても、その持ち場立場の事にです。実意をこめて、その事が、一心の眞を捧げる事につながるのであり、一心の眞を捧げて願う事につながるのであるという事なんです。そして、今月今日が立ち行く事のおかげが。
今月今日も立ち行きのおかげを頂いて有り難いという事で終わるのである。しかも、それが、又、明日につながって、又、明日は明日の事で、同じ事が繰り返されていけばです。日に日にさらに、今日も、嬉しゅうおかげを頂いたと、同じお礼が申し上げれる程しの素晴らしい事はない。金光様のご信心生活の、私は一番素晴らしいところは、そのように天地書附がですね。私共の生活の中に、生き生きと、一番見易いところに、一番手近な所に、いつも自分の心にかけ通しにかけられておるという事だと。今日は、いよいよ、改めて分からせて頂いたような気が致します。
どうぞ。